誰かの正義はわたしにとっては暴挙って話
人はそれぞれ、その人の理由で懸命に生きているのは間違いないでしょう。
けれど、誰かの懸命さ、特に正義を含んだものは、別の誰かにとっては暴挙となってしまう事があります。
わたしもそんな経験を何度も受けてきました。
✅正しさの暴力
正しさを持った人間にはそれが、正解だと思い込んでいるので、こちらの言い分を聞いてくれない事が多いでしょう。
人々はそんな状況を不条理なんて呼んでいたりします。
でも、本人達は、それが正しいと信じて疑わないので、無遠慮にずかずかとわたしの方にそれを押しつけて来たりするのです。
こんな風に時に正しさというのは、別の人にとっては暴力に等しいとげとげしさを持つことがあります。
最近では、パワハラやモラハラなんて表現も聞かれるようになってきましたが。
✅逃れるという生き方
わたしは、自分の時間がとても大事です。
そんな、正しさを信じる者達の言葉を真っ正面から戦って時間を浪費するのがとてつもなく嫌なのです。
だから、わたしは逃れるという生き方を選びました。
時には、それが卑怯者と言われるかもしれません。
けれど、わたしたちには限りのある時間しか残されていません。
その時間を楽しく、生きていて良かったと思える様に生きるためには、不当な正義から逃れる事も時には必要です。
✅まとめ
正義に溺れる人は、他人の事情などを想像する力を失ってしまっています。
その正義のために、その人の事情ではそれが受け入れられないのにも関わらず、制度だからとか、決まりだからとか言って押しつけてきます。
それらをいつも真っ正面から受ける必要はありません。
ときには逃れる事も選択肢に入れてみましょう。